野に牛を放つ

不定期にブログをしたためているが、常々思うのが横書きの日本語の文面は読み辛くいのではないかということだ。英語の文章が縦書きで書いてあったら、それは嫌がらせかと思う。例えば僕らが学校教育で触れてきた日本史の和歌等は縦書きの文章で書かれている。また今現在も刊行される書籍の大半は縦書きである。電子書籍化に伴い、この縦書き文化を廃絶するという決断も出来るだろうが、個人的には抵抗感を感じる。縦書きのブログがあるのであれば、そちらに即時移行したい。僕のような知名度のない人間の書く文章はディスプレイを通しての一方的なコミュニケーションになるので、読みやすさくらいは提供できないかなと思っているのですが、、、。

◆異性の同世代の人間かつ初めて会う状況になると決まってでてくるのが「好みのタイプの異性の話」だ。この手の話は大抵不毛だし、結果フィーリングじゃねえかと思うのだが、コミュニケーションとしてそれを口に出してしまうと「なんて趣のないオトコなの・・・」と思われるので、なんとか回答をひねり出して答えることになる。まず「頭のいい人」には惹かれるだろう。頭の良いというのは学歴がすごいであるとか、非常に高度な仕事に携わっているとかそんな上品ではない話ではなく、「個人の世界をきちんと持っており、他人の価値観や思想を受け入れることのできる器のある人だ」という定義が今現在しっくりきている。ただ、これも実体の無い言葉なので何ら意味はないに等しいのだが。

◆もう僕も28歳になった。6年前、スクラップアンドビルドの衝動に駆られたのか、若干飽きていることは明確だったので大学を卒業してから地元を出た。物件を探してみたり、見知らぬ人と仕事をしていたりすると今まででは味わえなかった感情があった。また他人に飽きやすい(飽きられやすい)ので、流動性が遥かに高い都市の方が向いているのかなとも思ったものである。またあらゆる意味で拠り所は複数持つべきで、一つしかないことの方が辛いかもしれない。その方が考えのバランスをとりやすい。耐えられなくなったらどこかをセーフハウス代わりに使ったり、一方を破棄することだって無理をすれば可能なはずだ。人間のストレッサーは大体が他人なので、希釈というのも一つの手段である。違う星の状況に一喜一憂していく必要はない。何が必要なのかどうか常に見極める姿勢が大事だと感じる。