亀に早めに泳げといっても聞かない

◆「私の家」という短編集を書いている。世の定義として 4,000字から32,000字は短編の範疇だそうだ。1話を4,000字〜6,000字で書いているので、短編集の中でもかなり短い部類になる。長い話を書いたことが一度もないので、どんな気苦労があるか分からない。ただ村上春樹が井戸の底のようなところに深く入っていく感覚に毎日浸っていくようなものと言っていたし、丸山健二も執筆期間中の過ごし方で文章が揺れるので、いままでの友人を全て切って同じように生活すると話していたので、ある程度は人間の心を手離さないと厳しいのだろう。喫茶店のようなところで他ごとをしながら中途半端に書いているようでは、長編はおそらく完成しないだろうし、完成したとしても読むに値しないものが上がってくるのだろうと思う。

 いま書いている短編集はコロナ禍に対して、自粛とか市場の経済に一市民として寄与するといった形じゃない支援ができないかと考えていた時、パッと思いついた。デザイナーのオクダさんに勢いで声をかけて、1文字も書けていない段階で期限も設定した企画なのでノープランっちゃあノープランで走り出した企画だ。制作費を除く売上は募金するというチャリティな面もあるので、コロナ禍に関連した内容を執筆すべきかと考えたが、無知な人間がそういった作品を書くのは失礼だと思ったので、いつものようにフィクションの話を書いている。(企画が走った時にWIRED?か何かがコロナ禍に着想を得た作品を集めた号をやっていたので偶然にも読んでいる。)

 作品はホラーテイストに寄ってしまったなあという感じ。ちなみにこれを書いている時、表題作の「僕の家」はまだ出来上がっていない。自分の読書のルーツとなる作品は横山光輝「三国志」グリム童話だ。なかでも「本当は恐ろしいグリム童話」という本が大変お気に入りで、よく親の運転する車の中で読んでいた記憶がある。あと記憶にあるのは、蓮見圭一の「悪魔を憐れむ歌」という本を中学校の朝読書の時間に読んでいたことだ。この本は「逆らう奴は全員、透明にしちまえばいいんだ」のセリフで有名な「愛犬家連続殺人事件」のノンフィクション小説です。(映画:冷たい熱帯魚でもこの事件は有名ですね。でんでんさん。)あまり内容は覚えていないけれど、牛刀を使って人を殺害する描写は十代の自分には刺激が強すぎた。相当暗いし、タイミングがタイミングであれば教師に目をつけられて、犯罪者予備軍として裏で噂されていたかもしれない。なので、自分の作品のルーツを小さい頃まで戻ってみるとホラーと争い事なのだと思う。怪談の類もすごく好きですし、なんなら家族揃ってホラードキュメンタリーのDVDを見る家庭で育ちましたから。

 人生とか人のルーツの切り取り方は難しい、切り取り方次第で俺は有名AV男優の運転手でもあり、ドラマーでもあり、学生でもあり、金融機関の社員でもあるから人生の色んな局面で色んな影響を受けまくったらいいと思う。

 

◆この文章は井の頭線の渋谷〜富士見ヶ丘間で全て書いた。日本語がおかしい部分とかあっても許してほしい。人間にそれくらいの余裕は必要だ。

近所のコーヒー屋の豆がいちばん旨い

◆先日、ある方を取材した。「ウィズコロナ、アフターコロナの生活様式」というテーマでカチッとトークの内容も固めず、ざっくばらんに話していただいた。取材対象の方はメディアの出演経験も豊富な外国人経営者で、講演とかに慣れている方は話運びが上手いなあと思いながら話を聞いていた。私は要所要所で話をしていて、「国政に対して、メディアやSNSで失策だからやめろと連日罵声を浴びせているのを目にしていて、意見としては正しいかもしれないが、疲れませんか。」と問いかけた。こういった内容は政治色が出てしまうので使えるかは微妙だったが、個人的に気になっていたことなのでいい機会だと思い質問をした。そうすると、「そうですね…最近はみんな、簡単に意見しすぎですね。」という切り出し方で丁重にお答えいただいた。

 「意見しすぎ。」というのは非常に良い見方だ。発言する場が平等に与えられているというのはインターネット黎明期〜成長期を経験している私たちからすると当たり前のことだ。SNSが発達してしまった今、一億(と2,000万ちょい)総評論家状態なので、日々、「何でこの人こんなこと発言してるんだろう」、とか「分かった気になっていて本当にきしょい」とかいう気持ちになることがままある。批評することは大事なんだけど、「必要なときだけお互いのすり合わせのために喧嘩をするけど、ムダに意見しない」というスタンスをとるのが、心の健康衛生上良いのかもしれない。僕は仕事柄、SNS断ちできないので、どんなスタンスで向き合うかということを、ここ10年近く毎日1分くらいのボリューム考えている気がする。SNSの登場は現代の人間には少し早かったという考えは昔からずっと変わっていない。

 

◆ゴーストオブツシマが面白い。PS5へとハードを移すニュースが出て、PS4時代の終わりが近づいているこの時期にこういうソフトが出たのはものすごいことだと思う。同日発売のペーパーマリオの2倍の数をセールスしているらしい。ゲームの時代は鎌倉時代中期、日本史で皆さんが習った「文永の役」での対馬侵攻から物語が始まる。いろいろなクエストをクリアしながら、悪虐の限りを尽す宿敵の蒙古軍を討っていくというゲームだ。ゲームのクエスト内容は若干繰り返しの作業に思えるかもしれないが、キャラの会話や主人公が詠む句にはいろいろな人生の学びがある。「急いては事を仕損じる」とか「優しさなんていくらでも取り繕えます…」といった至言が盛り沢山。またゲーム面でも戦闘システムが凝っていて、ハードコアアクションとしてかなり出来がいい。このゲームを海外のゲームメーカーが作ったことが良いことだ。おそらく日本のメーカーの場合、元寇を舞台にしたゲームはまず作らないし、ここまで世界的に展開することもなかっただろうと思う。作り込み方を見れば、制作サイドの調査量や勉強量は計り知れないものがある。しかし、どうやら海外のユーザーの一部では人種差別と武士の造形などがポリコレ論争に巻き込まれているようだが、これはちょっと考える意味がないのでやめてほしい。このゲームはゲームとして面白いかを語ってくれればそれで十分だと思う。次プレイするゲーム、何にしようかしら。

岩風呂に入りたい

◆コロナ禍が始まってから放映され始めた高校生?が歌唱している姿をリモート撮影し、合わせて合唱風にするというポ○リスエットのCMが非常に苦手、というかキツくて、あれを見るならテレビショッピングを見ていた方が幾分かマシだという思いになるのですが、皆さんいかがでしょうか。少なくとも商品コミュニケーションの担当者はおそらくあの表現を良いと考えていて、現に多くの方の共感を得ていると思うのですが、心がゾワゾワしてしまうのは何でなんでしょうか。何でなのかを考えたんですが、未だに言葉にできません。自分の好き嫌いを他人に共感してくれという考えを持ったことは生まれてから死ぬまで一度もないですが、あれが多くの人に何かしらの評価を得る(もしくは得ている)のであれば、ポ○リスエットの担当者としての素質が僕にはないということは確か、です。

 

◆いろんな世間のお金の平均値を見るのが昔から好きです。世代別の平均所得、世帯平均貯蓄額、月間の支出平均…ググるといろんな平均値を短い時間で理解することができます。2016年に厚生労働省が発表した年代別平均貯蓄額、29歳以下ですと、「154万8000円」だそう。この数字の裏にはいろんなドラマを見てとることができます。僕は口座を貯金用、給与振込口座、緊急支出用と大まかに3つに分けていますが、ぶっちゃけると貯金用にこんな金額は入っていませんね。毎月給与が入るとしょうもないことに使ってしまっているので。平均貯蓄額に話を戻しまして、39歳になると「403万ちょっと」に額がぐっと上がります。勤め人ですと、給与もそれなりに上がって、家庭も持つ人が多くなることで、貯蓄に意識的にならざる得ない人が多くなるのでしょう。この数字を受けて、僕は老後の資金源に思いを馳せます。老後の資金源は大きく3つあると言われていて、年金・退職金・貯金だそうです。おそらく僕ら以下の世代は現在の基準で年金を受給するのは絶望的なので、ほぼ無いと考えると、ゆくゆくの心的ダメージはないかと思います。勤め人の希望の星である退職金もまあ、、、同様でしょう。あれば、幸せですね。ともすると、貯金を切り崩しながら老後を過ごすということになりますが、これだけで日々闘うとなると、、、ということを考えながら、昨日スニーカーを買うのを我慢したという話です。

 

◆「僕の家」という全5篇の短編集を9月中旬に出します。海外のどこかを舞台にした話を書くことが最近多かったですが、今回は日本を舞台にしようかと思っています。予定では8月中に予約を受け付けて、売り上げについては全て新型コロナウイルス関係の基金か何かに募金します。また告知するんで、頭に留めて置いてもらえると嬉しいです。まだ2000字ちょっとしか書けていないけれど。

牛丼の並盛り 380円(税込)

◆このところ他県から心配されるような都知事選や都での新型コロナウイルスの感染者数の増大など、心が晴れやかになる話題が一つもないと同時に、目まぐるしく自分をとりまく環境が変わっているので、何をしてようとも完全に落ち着いている感覚はない。インターネットの出現により、人間の生活サイクルやリズムがひと時代昔と比べて何倍もの速さになったという言論はもう化石化しているが、こんな状況だと時代に適応できない人や、時代そのものを必要としない人も多く出てきているだろうと思う。ただ、何ごとに対してもものの考え方を持たず、それでいて無知な人間は野山の猿よりも有害な感じがするので、そこは少しずつ考えながらうまくやっていくしかない。

あと打ち合わせが全てオンラインになった。対面ミーティングと比べて圧倒的に「効率」が支配している印象だ。例えば陽の差し方とか相手の所作とか部屋の匂いとかが全く排されていて、コミュニケーションがケミカルな感じがするので少し疲れる。もう「デジタルはリアルの代用品だ」みたいな平成のマインドではなくなっていると思うので、しばらくは慣れるしかない。(ただ「完全にオンラインでの仕事を経験した人」が現状4割くらいという調査も見た気がするので、おいおい、そんなバランスで一体、本当に大丈夫なのかとも思う。)

 

◆引越しをして4ヶ月になった。自粛開始時期とほぼ同時に住処が変わったわけだが、その間に本を58冊、映画を75本観賞したとのことだった。自粛期間とはいえ、他にやることも仕事以外そうないので、仕方のないことだと思う。大事なのは触れた作品数ではないと言われればただ肯くしかないが、たくさんの作品を能動的に選択できる貴重な時期だとも言える。

 

◆私はありがたいことに挫折の経験を早期に色々と積むことができた。よくしくじった経験を話す有名人などをメディアで見る機会があるが、そんな時、全能感に支配されている時期って大なり小なり皆あるんじゃないかと思います。実際どうなんだろうか。自分も例に漏れず、何か成し遂げたわけでもないのに全能感を持っていた時期があったが、どっかで崩れた音が聞こえたことがあって、思い返すとしょうもないかもしれないが、大学受験に失敗したことが一番大きかった。当時の自分を思い返すとめちゃくちゃ馬鹿で、よく周りとコミュニケーションをとれていたなと思う。(おそらく取れていた気になっているだけ。大型の類人猿が泣き声を発して、周りが微妙な精神的・肉体的な段階的変化を評価しているようなものに近い。)ある時、そこそこ勉強した気だったのに、志望校にサクっと落ちて、「あ、俺ってまさか」って見て見ぬフリをしていた何かに気づいたのだ。当然に受かると思っていたから、浪人という選択肢も当然に持たせてもらえず、卒業式当日も心で泣きながら勉強をした思い出がある。まあ何とか大学には入れたが、親以外に迷惑をかけたわけじゃないので、比較的綺麗めな挫折だったと思う。

 

◆給付金が住民税の徴収により溶けてしまった。もう170回くらい給付してほしい。

構築と撤回

◆友人のお店である「ダイトカイ」がクラウドファウンディングを行っている。新型コロナウイルスの影響は計り知れず、個人でやっているお店は本当に辛い思いをしていると思う。私にとっての好きなお店や思い出深い場所も少しずつその数を減らしていった。最近で言えば、渋谷のParis COFFEE、秋葉原CLUB GOODMAN。いつも行くお店が当たり前にある環境は実に儚いものだという認識を改めて強くした。
 クラウドファウンディングは支援してくれた場合、お店から何らかのバックがある。ダイトカイではアーティストブックやTシャツ、アフターパーティのチケットなどを用意している。私は微力ではあるが、アーティストブックに自分の作品を提供する流れとなった。アーティストブックに名を連ねる人は画や写真の分野で第一線として活躍していたり、自分のお店をやっていたりと己の道を日々、自然体で研鑽している人たちだ。私も編集という立場で日々文章に携わる仕事をしているが、書いている作品を常に売り出してはおらず、不定期で世に出している。中途半端だと言われればそれまでだが、そんな自分でしか作り出すことのできない作品をきちんと書くつもりだ。ただ、タイトルが決まらない。そろそろ締め切りが近いのでどうしようかと考えている。

 

◆好きな作家は、と問われると困ってしまう。パッと思い浮かぶのは丸山健二大江健三郎村上春樹、、、(別枠でN/Kこと菊地成孔)。挙げるとなると、かなりの人数が出てくる。最近読んだ作品だと、先に挙げた丸山健二の「小説家の覚悟」というエッセイは本当にお気に入りだ。自分は速読する傾向があるが、この作品は読み切るのがもったいなかったので、10ページくらい読むと、残りは次の日に持ち越していた。なかでも映画への言及が特徴的で、小説家であるが、真の映画の愛好家でもあった丸山健二。その考えの推移が面白い。そんな私は映画と本それぞれに違う面白さがあって、それぞれの領域が不可侵であることはとても美しいと考えている。

 

◆くるぶしのあたりに赤い湿疹のようなものが出来てしまった。おそらく蕁麻疹であり、少し痒くて困っている。何が原因で出来たんだろうかという話になった時、ハツ刺しみたいな生モノを食べたからかなあ、と何の罪もない牛のせいにしてしまった。おそらく真の原因は眠りが浅いことによる免疫力の低下だと思うので、その場合は胃腸のなかにいる牛には丁重に謝っておきたい。

生活考

◆コロナ禍の自粛生活にも慣れてきた。3月初めくらいからリモートワークしているが、所属している会社の恩恵もあり言わずもがな至極快適だし、食事も自炊とUberEatsを中心として美味しいものに問題なくありつける。普段から酒はあまり飲まないが、これを機にまとめ買いしたので、不思議と財布の中で息を潜めている野口秀雄たちの人数は減っていかない。個人商店の皆さんや会社を率いている人たちを考えると、こちらも悩ましい想いでいっぱいになるが、自分一人のこととして省みると、何も不自由していない、むしろ快適だ。

 今日、気分を変えようと思い、とあるコーヒーショップへ作業しに行った。そこはWi-Fiの環境は不自由なく使えるし、どこにでもあるし、珈琲外食産業界のセブンイレブンくらいに思っているのでコロナ禍以前はよく使用していた。行ってみての感想だが、一人での利用はもう控えようと思った。以下、理由。

 

・作業している人が多く、窮屈な仕事場のように思えてストレス

・作業したいのにソーシャルディスタンスなどの関係で他人に気を使わなければならない

・ドリンクがものすごく甘い(最近挽いた豆を使って自分で淹れているのでその味に慣れたし、自炊を中心とした味付けに慣れたため、過度な味がきつく感じているのかもしれない)

 

など、どう考えても自宅での作業に軍配が上がる。

 自粛生活というものは、小さなところから自分の趣味嗜好を大きく変えている。

 

◆最近、ゲームをやっている。私は小学生〜中学生の頃くらいまで自他ともに認めるゲーマーで、ドラゴンクエスト7を例に取ると、1日17時間半、寝食を忘れプレイしていた。(同級生に仮想の競争相手がいたことも原因の一つだ。気が狂っている。)ゲームはそれなりに上手い方だと思う。

 大抵のゲームはターン制で、これはRPGであっても、育成ゲームでも、オープンワールドアクションゲームであってもジャンル問わずに大体共通している。こちらが永遠に攻め続けられるゲームは一瞬で「作業ゲー」と化し、1時間くらいで飽きてしまう。よって、ゲームの面白さは「相手の出方を適切な形でいなす」という点にあると思う。

 最近遊んだゲームの中でも特に出色だったのは、「SEKIRO -SHADOWS DIE TWICE-」。これは本当に面白かった。フロムソフトウェアのゲームには小さい頃からお世話になっていた。「エヴァーグレイス」「天誅参」などの神死にゲーをコンスタントに出している良作メーカーだ。「SEKIRO」も例に漏れずの死にゲーで、1周クリアするまでにおそらく200回〜250回くらいやり直していて、心が折れかけてしまうところもあった。ただ、段々と上手くなっていくことが肌身を感じて伝わるのである。忍の見習いが隻狼になるまでを身体で感じることができる。こんなゲームの存在は本当に稀有だ。

 ボスを倒して叫び声をあげたゲームなんて久しぶりだ。ドラゴンクエスト7ヘルクラウダー戦(あの真空波の連発には何度泣いたことだろうか。)ぶりだろうか。とってもいい経験をさせてもらった。

 

◆近頃、芸能系の話題の消化の速さを感じる。アンジャッシュ渡部の六本木ヒルズ地下帝国での不倫は数十時間程度で徐々に風化し、もう誰も志村けんさんの死に触れていない。鮮度というものがあるから仕方のないことだが、そんなことに目が行くようになったのは、自分が有閑な馬鹿である証だと思う。

ウイルスと映画

◆ウイルス

 

 電車に乗る、仕事の打ち合わせに出る、そういった日常のあらゆる場面で見聞きするのが、コロナウイルスの話題である。人命に関わる重要な話だが、ここまで毎日のように同じように危機的な状況だと聞かされるとかなり気が滅入ってくる。昨日、都内でも週末の外出自粛の要請が出た。オリンピックも中止になり、風雲急を告げている状況がみてとれる。

 そんな世情も相まって、ニュースやらさま様な番組をテレビでみる場面が増え、そのたびに地上波放送が本当に要らないという思いが特に強くなってくる。僕は高校に進学してから意識的にテレビ離れを行っていて、「さよならテレビジョン」といった生活スタイルをなるべく行ってきた。

 理由はいくつもあるが、まずおおよそのテレビ放送の内容において「対話」が成り立たない。ドラマでもニュースでもバラエティでも、こちらが考える余地を感じないものが多い。またそれが考えるべき内容であってもCMで寸断される。僕が読書や映画を好むのは、この「対話」に理由がある。作り手の意思の提示があって、「どうだこの展開は」とか、「この方がいいんじゃないか」とか、自分の身体で思考することができる。たとえ低次元な考え方であっても楽しいからよい。あとテレビはあまりにも選択肢が少ない、なんだ12チャンネルくらいの中から視聴番組を選ぶばなきゃいけない。ここまでコンテンツ飽和状態の現代、あまりにも狭小すぎる。テレビのようなメディアの場合、小さな愚行でも大きな狂気で圧倒できてしまう。そんな状況には常にNOを突きつけていきたい。

 自分が出演する予定だった公演は当然、自粛または延期になってしまった。僕をドラマーとして必要としてくれる人が、ようやくちらほら出てきてくれたのに非常に残念だ。規模は違えど、人前に出ている人たちが頭を悩ましていることに、同じような立場で自分も考える場があるという状況は嬉しくもあり、同時に悲しくもある。

 

◆映画

 

 先ほど諏訪敦彦監督の著作「誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のためにー制作・教育・批評」(フィルムアート社)を3日をかけて読了した。計約500ページにものぼる大著だが、退屈する事なく、ふむふむと納得しながら読んだ。

 諏訪敦彦という監督は、ある友人から教えてもらった。カンヌ国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞したり、東京造形大学の学長に就任したりと、世界的に有名な監督なのだが、映画好きもどきの私には耳馴染みがなく、どれどれとおすすめされた「ユキとニナ」という作品を観た。

 

 「ユキとニナ」は俳優のイボリット・ジラルドと共同監督という形で制作された日仏合作の映画である。あらすじはこうだ。

 

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 パリに住む日仏ハーフで9歳の女の子のユキは、同い年のニナと大の親友。だが、ある時両親の仲が悪くなり、母親はユキを連れて日本へ帰ることを計画する。親友と離れたくない二人は、両親の離婚を阻止するために奮闘するが、それも虚しく離婚は決定的となる。ユキとニナは家出を決意し、電車に乗ってニナの母親の故郷へ向かう。

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 詳しくは作品を観て欲しいのだが、僕にとって印象的なシーンがある。それはユキ(ノエ・サンピ)が両親の離婚を防ぐために匿名(愛の妖精として)の手紙を友人のニナと作成し、それを母親が読むシーンだ。そこで母親役のツユはエモーショナルな演技で手紙を読む。セオリー通りであれば、ユキはその母親の感情を自分なりに汲んで、悲しい表情をしたり、はたまた中空に目をやったりして、ある種の情をかけるのが定石とされる演技だと思う。しかし、ノエがとった演技は「笑う」事だった。それも演技的な笑いではなく、苦笑ともとれる素の笑いだ。演技が「破綻」してしまっているのである。

 このシーンにめちゃくちゃ衝撃を受けてしまい、この先一生忘れないんじゃないかと思う。先ほど触れた本でも、この「ユキとニナ」についての制作風景だったり、インタビューが収録されているが、ここのエピソードは非常に面白い。演技が破綻してしまったため、もちろん撮り直しを行ったが、先ほどよりいいテイクは撮れない。ただ、この演技の破綻によって、受け取り方次第では母と娘の関係性がほのかに立ち上がってくるいいシーンのように思えてきたようだ。この「笑い」の真相は「あまりにも泣きすぎていて、(ツユ)の目のメイクが落ち、顔がパンダのようになったから」とノエが語っている。

 この状況はおそらく現場の人間、観客ともに誰一人として予期していない、というかできない。台本にも書かれておらず、今までの理論が当てはまらないからだ。

 

 自然は尊い。森だったり、海だったり。それは人間の頭の中にない風景が広がっているからだ。一方で私たちが過ごしているビルやマンション、映画館などは人の手で作ったものにすぎず、それは「予期」できるものだ。僕は人間の頭にはない「予期」出来ないものこそ面白いと思う。

 

 自分は「Compact Club」というバンドに所属し、ドラムを叩いている。このバンドとスタジオに入って、しばらく過ごしてから、正式にお誘いを受けた。これは僕にとって一種のユートピア的提案だったので、即加入を決めた。このバンドは、何が飛び出してくるのかわからず、というか、やっている僕でさえはじめはあまり良さがわからない曲を作ったりしている時がある。もちろん全員が納得した形で一旦の完成を迎えるが、ここにとてつもない面白さが潜んでいる。化学反応とはよく言ったもので、予期できない面白さ、誰にも消費されない何かが、そこにはたしかにあるのだ。

 いまはなにかを目指して、頭にあることを達成して得る楽しさよりも、ずっとそっちの方が面白いと思える。