アルファビル解題

◆あまりに日光の下を歩いておらず、一部では死亡説が流れていた私にも、ごく少数ではあるが文章を書けと言われることがある。ありがたいことなので、半年以上ぶりに何にもならない文章を書いている。ただ、こういう金にならないことが個人的に一番大事だ。逆を言えば、金になるようなことはさして重要ではない気がする。

 

◆映画ばかり観ている。30歳を超えると興味や趣味嗜好が変わるよと名前も思い出せない人から言われていた記憶があるが、本当にそうだ。昔すごく好きだったことが、なんであんなにも好きだったのか理由すら思い出せなくなることがある。ただし、映画はそうではないようだ。

 

映画館にいって観に行きたい作品に二パターンある。一つ目が傑作であることが事前にある程度わかっている作品。二つ目に自分でもどのような評価を下すかわからない作品。それで、後者の方が映画体験としては何倍も豊潤であることが多い。直近で言えば、私は「ニトラム」という作品を観た。

 

映画を観るにあたっては、誇張ではなく「この作品が自分の人生に陰を落とすことになるかもしれないな」と構えて席につくことがままある。最近で言えば、「ハウス・ジャック・ビルド」や「幸福なラザロ」などが当てはまるが、「ニトラム」に関しては、事前情報なく日本版ポスターのデザインが珍しく洗練されていたので、気になっていた程度。題材となっている「ポート・アーサー事件」のこともよく知らないままに座席についた。が、開始10分くらいでこれはもしかして、非常に(いい意味で)自分にとって厳しい作品になるという確信を得て、それが現実となった。

 

主演のケイレブ・ランドリー・ジョーンズは「アンチヴァイラル」(ブランドン・クローネンバーグのポゼッサーも気になっています!)で非常に怪演を見せていた私とほぼ同世代の俳優で、世界最高水準の演技を見せてくれる数少ない俳優だ。彼がニトラムこと、マーティン・ブライアントを演じている。

 

マーティンはロバのようなだらしない体つき、先天的な知能障害、火薬に対する無意識の羨望などから、危険でノロマな人物という扱い方をされている。結果的に30人以上を無差別に殺害する蛮行に及ぶことになるが(彼はこの事件により、30回以上の無期懲役刑を言い渡されている)、どのようにしてマーティンがその「ポート・アーサー事件」に行き着くのかが映画では描かれている。(ニトラムというのはマーティンを反対から読んだ呼び方で、ノロマなどと言った蔑称で使われている。)

 

往々にして、こういった残虐な事件などを扱うノンフィクション作品では感情移入をするシーンで脇を固めることが多い。ニトラムはそういった当事者たち以外からの悲哀は到底透過できない作品となっている。そこが巧いと思った。ただの鑑賞者でしかない我々はマーティンを見て、可哀想だ、ひどいと思う権利すら与えられず、その映画の巧さに身を委ねるほかない。そんな稀有な距離感を感じられる作品だった。

 

人生を揺るぐ場面を誰かが必死に泳いでいる際、その誰かの大切な人は煙草を吸うなり、隣の庭を眺めたりして何気なく過ごしているものだろうな、と映画を観て思った。

 

◆半年以上前に書籍を作りまっせ宣言をしてから、あんまり書けていない、というかほぼ書けていない。私生活が少しだけ忙しいというのはあるけども、執筆は精神的なゆとりというのが絶対的に必要な作業なので、この事実だけで最近は心も体も言うほどに余裕がなかったことが窺い知れる。

 

仮タイトルとして、2つほど頭に思い浮かべていたものがある。一つは「白子の一生」というもので、もう一つは「エンゲージメント」というものだ。ただ、もう今となってはそのタイトルの鮮度も落ちきってしまい、おそらく使うことはないだろう。「白子の一生」では、主人公がいろいろと人間の業みたいなものに巻き込まれる物語を構想していた。まあただ、なんか題材がちょー俗っぽいし、書き出してみても都会的なニオイがしそうで、書いていて飽きそうだったので、パッとやめた。ちなみ「白子」は、近所にある立派なお屋敷の表札を見て、いい苗字だなと思ったので、これを使ってみたいと思った。他人の苗字は著作権フリーで使える。

 

「エンゲージメント」はすごく昔に思いついたタイトルだ。年季が入ってしまって、自分の脳みその中では蜘蛛の巣が張ってしまっている。「深い関係性」みたいな意味だった気がするが、おそらくSFチックで不条理な物語を描こうとしていたのだろう。不条理というのは自分が何かものを書く上で気分が乗るフィールドの一つなのだが、タイトルを考えただけで時が止まっていた。

 

書かずにいて感じることが、書かないと本当にものが書けなくなることだ。どんな駄文であっても多少は何か書いた方がいいということだろう。ビジネス文章ばかり書いていると頭と指の運動にはなるかもしれないが、知らぬ間に心には埃が溜まっていき、自分でも面白くないと感じる自分に近づいていく。

泥のような味のコーヒーとUK仕込みの英語

◆自粛生活に嫌気が差しまくっているタイミングで自分の20代をふと振り返ってみた。周りの人に恵まれて幸せな人生を歩んできたものの、その反面に自らの行動や言動など、本当にロクでもないので、そのせいで頭がフラフラしてしまう。死ぬまでこのままなのかと落ち込んでくる。なので、何かの取っ掛かりとして、今年は努めて「節制」している。

 

思い返せば、奨学金を借りて大学に行き、夜は外食ばかりしていた21歳、毎朝700円のモーニングを食べて出勤していた25歳、欲しいモノがあれば脳死でクレジットカードを出して分割購入していた26歳、台北行きの飛行機をヘラヘラ乗り遅れた28歳。そりゃあ、金も貯まるわけがない。「節制なんてF○CKだ、一度きりの人生なんだ。思うがまま自由奔放に生きればいいじゃねえか!!」という人に同意できないわけではないが、少し違った側面から見てみよう。俺は特別な人でもなく、紛れもない一般のヒトなのだ、、、ただ無駄な貯金しようと言っているわけではない。今年はグッと堪えて、抑制のきいた時期にしようと思っている。何もかも我慢して毎日カロリーメイトと雨水で過ごすとか、そういうことを言っているわけではない。話のネタにもならない、つまらない、その場しのぎの金と時間の遣い方を今年はやめるといったところか。もしその生活に飽きたら、どうするか。それは、その時に考える。

 

新型コロナウイルスの猛進が止まらない。身の回りでも何人か隔離された人がいる。味覚が無くなった者、自覚症状のないままにいきなり倒れた者、海外の風俗店で移された者、、、何人もの戦士たちが目に見えぬ敵の前に崩れ落ちていった。という感じで、もうそろそろ同じ話題で世間が盛り上がりすぎていて、この1年半くらい、自分の人生を喪失した気分になっている人も多そうだ。かくいう、自分もそうである。このまま40歳くらいまで緊急事態宣言を延長されてしまったら、懲役10年の禁固刑を食らっていたんだという感覚になってしまいそう。どうなんですかね、これから先行き不安ですけども。私たち、ニューノーマルとかいう甘言の上で生活をしなければならないんでしょうか。もう新型じゃねえよ、てめえは。でかい顔で1年半も居座りやがって。

 

◆自粛の友といえば何か、筆頭がゲームだ。とうとう大会にまで出るようになってしまい、今では「エンジョイ勢です」と言えなくなってしまったタイトルもある。ゲームの大会は本当に面白い。5〜6人が1チームとなって、優勝を目指して凌ぎを削る。APEXのようなプロゲーマーがひしめくタイトルではないため、一部の有名ストリーマーを除き、全員がもれなく一般人である。とはいえ、練習は熾烈を極める(こともある)。本番で思ったような動きができず、所属していたチームをクビになったこともある。(何かをクビになるという経験が初めてだったので、大いに笑ってしまった。ちなみに俺以外にも1人のクビが23歳のリーダーから言い渡された。)おそらく、このままのペースだとプレイが2,000時間を超えるだろうというところだが、少し熱が冷めてきてしまっていることにも自覚している。何か新しい趣味を見つけなければならないということで、10月のどっかのタイミングに向けて、また書籍でも作ろうかと考えている。筆を走らせる、いや物語をタイプするという行為が一番面白いことに俺は気付いてしまっている。

最近、昼にパスタを食うことが多い

◆いつの間にやら、再度の緊急事態宣言がなされた。国の舵取りだけではいつ収束するか分からず(しないかもしれない)、自分も気をつけられる時には気をつけているつもりだが、終わりが見えず、これが非常に疲れてしまう。仕事のプロジェクトでも終わりのタイミングの見えない場合、その業務にはなるべくアサインしてもらいたくない。

 いま、総理をリーダーとした「新型コロナウイルス終息プロジェクト」に全日本国民がアサインされている。いち平社員の自分は第二回緊急事態宣言後、「できる限り自粛、ほぼほぼテレワーク」という形で従事している。いろいろなスタンスを日々皆さんが取る中、感染者数、陽性率の情報が嫌でも耳に入ってくる。検査数を見るに、今日(1/14)の陽性率をそのままに反映するのであれば、明日は5,000〜6,000人の感染者が出てくるかもしれない。そんな地獄みたいな数字が出ないことを祈る。

 そんなことを横目に先ほど「ベルセルク」の全巻セットをAmazonで注文した。土日で読もうと思う。

 

◆「ダークソウル3」のプレイ時間が250時間を超えた。おそらく中学生の頃にやり込んだ「三國無双2」並みのプレイ時間じゃないかと思う。「ダークソウル3」は2016年3月に発売されたアクションRPGで、全世界で1,000万本売り上げたらしい。もう丸5年経とうとしていますが、いまだにオンラインプレイはものすごく活況。

 物語はというと、ロスリックと呼ばれる王国で始まり、「世界の根源である、はじまりの火を継いだ『薪の王』たちの亡骸と彼らの故郷が流れ着く。ある時、はじまりの火が陰り、鐘が響き渡る。火が陰ったことで生死の境があいまいになり、死んでいた薪の王たちが蘇る。彼らは課せられていた火継ぎの使命をある理由から投げ出し、どうのこうの。」と言ったような自分の心の中の中学生が両手を振って暴れだすようなストーリー。

 敵の名前もお見事で「教会の槍、ハーフライト」とか「灰の審判者、グンダ」とかですね、自分が80歳くらいなったとき、あだ名でそう呼んでもらいたいくらいです。

 また武器の組み替えや各人の戦闘スタイルの交錯が見事で、底の見えない戦略性は突き詰めても、突き詰めても、どうのこうの。すっかりオンラインプレイの虜といった感じ。誰か対戦しましょう。

 

◆仕事柄、いろんな人の取材を行う。また、読書が好きなのでいろんな本を読む。そんな一見カテゴリが違うことでも、急に大事であろうことや通底していることが目の前に立ち上がってくる。そういったことを通して、自分の考えと他人の考えのある種の答え合わせをする感覚になることがある。例えば、昔から「金持ちになりたい」とか、「こういう人間になりたい」とか明確に思わないことを一貫してきた人間なのだけれども、まあそんなにそれは方向性誤っていないなあと思う部分が出てきたり。今までの人生の振り返りを30歳になったいま、やってみている。

 いろんな取捨選択をしてきて、それもまあ総じて誤りばかりだったかもしれないけれども、今んところ人生そんなもんだと思っている。

シリアスな場面で出される、吉野家の牛丼

◆日本での全国の新型コロナウイルスの感染者数は2,000人を連日超えている状況だが、疲弊してしまったのか、もう諦めているのか、街には以前ほどの警戒モードは微塵も感じられず、腰に手をやるカップルや数多のワーカー、外国人によるデモ行進など、マスクを付けながらもコロナ出現前の生活を過ごしている。とはいえ、そんな自分も連日の重症者数を告げる報道や都知事の会見などを見ても、半年前の焼き直しを見ている感覚になってしまい、「その度に思考する」ということもなくなってしまっている。こんなことを有名人とかが報道番組で言うと、火ダルマになってしまうだろうが、コロナの出現によって恩恵を受けられた面はものすごく大きい。ウイルスが広がらなかったら日本は平成の空気をいつまでも引きずっていただろう。ノーマルな生活様式は跡形もなく崩壊し、「当たり前の生活の仕方」を定める裁量は個人に以前と比べられないくらいに委ねられている。歪な集団圧力(「昔はこうだったから、こうしていたから」みたいな言説)みたいなものもなくなっているので、快適っちゃあ快適である。ただ、この「生暖かい真綿で首を絞められたり、緩められたりしている状況」にいつまでみんな耐えられるのだろうか。もしくは、もう事切れて始めているのか。

 

◆最近、PS4の人気ソフト「ダークソウル3」のトロフィーコンプリートに必要な情報が記載されたファイルを、誤って上司にメールで送ってしまった。「スズメバチの指輪」や「ハベルの指輪+3」という架空のアイテムはゲームの主人公に必要かもしれないが、ゲームよりも展開の早いビジネスの世界には全く必要ない。「林さん、これは見なかったことにしておきますね!」という返信の20字はどんな敵の一撃よりも重かった。

 

◆文芸作品はいい、頭の中で何にでもなれる。大量の札束に火をつけて、人に渡すこともできるし、動物にドイツ語を話させることもできる。「自分、夢が多くて何になるか迷っています…、何もできていないんですけどね。」というような人は一度小説を書いたらいいと思う。大抵、現実が自分の思い通りになることはないので、普通の生活を地道に送りながら、荒唐無稽な話を書いたらいいと思う。突き詰めると、この世は頭のおかしな人間しかいないので、その人たちが生み出す物語には必ず何かしらの価値が付く。命をすり減らして書いた作品であれば、無名・有名、巧拙問わずにどんなものでも読んでみたい。最近、本を読む時間とエネルギーが足りない。読まないと、当然に心も痩せてくる。加えて、いま自分は何も書けていないのだが、隙間を見つけ、ほぼ儲かりもしない文芸作品を生み出していきたい。

俺は何も考えず、海外に行きたい

◆短編集の販売まわりの作業が一旦落ち着いた。嬉しいことにSNSのDMなどで、買ってくれた方がそれぞれの感想を寄せてくれる。●●という話が面白かったとか、怖かったという感想を聞くと、とても幸せな気持ちになる。プロの作家でもない男が、インディー究極完全体グレートモス(a.k.a インセクター羽蛾)さながらな状況で書いて、自分の手で印刷し、手渡しや郵送で届ける作業はとても楽しい。計50部も売れてないので、そんなことを言う位置にいないのは明白だが、誰にも忖度をしない場所で、媚びることがない作品はリアルに感じられて、どんなものでも気になってつい触れてしまう。いつまでもこんな感じで執筆業もどきを続けられたらいいなと考えている。

 

アコースティックギターを買った。僕はギターから音楽を始めてしまうと、機材だけ揃えて聴いてみると腕はないみたいなファッションギタリストになることはわかっていたので、ドラムというパートを本能的に選択した。そいでもって、ドラムを日常的に続けるようになってもうかれこれ12年になる。まだ上達の影は見ることはできないけれど、幸いなことに演奏を他人に観てもらう機会を持つことができている。

 なんで急にアコースティックギターなんか買ったかというと、高校の頃に凄く好きでよく聴いていたジョン・メイヤーの「In Your Atomosphere」のビデオを最近なんかの機会で観た後に、気づいていたらデジマートを見ていたという次第です。(LAにあるノキアシアターのライブがYouTubeあるので、よければみてください、めちゃいいです。)まあ少しずつ好きな曲を弾けるようにしながら、簡単な曲を自作できるようになったらいいなと思いながら、オルタネイトに苦しんでいます。なんだこれ、やけに細けえ動きだな。

 

◆最近、マーティン・スコセッシの映画を集中して観ている。同じ監督の作品を立て続けに観ることによって体系的にその監督を知ることができる気がしないでもない。「カジノ」「グッドフェローズ」辺りも「シャッターアイランド」「ディパーテッド」などとテイストが妙に違うので、いろいろと手広い監督であることが素人目にもわかる。僕は70年代後半〜90年初頭のデニーロが出ていたスコセッシ作品はまさに文学クラシックスに触れている気がして、すごく良い気分で観ることができる。ジョー・ペシが木のバットで顔をぐちゃぐちゃにされていても、いい感じの虚構具合とコミカルさがあって笑ってしまう。

 僕は映画もその傾向があるのだけど、音楽を体系的に聴いてこなかったので、他人に話せるジャンルと言えば、USインディー(それもごくわずかの)界隈くらいな気がする。それ以外のジャンルは散逸して聴いてしまっているので、「歴史」や「教養」という意味合いで伝えることは何もないだろう。体系的に聴くという行為は些か不健全な気がするけれど、他人と話をするときなどには結構役に立つんだよということを、三十歳になってからふと感じる。

年会費無料という謳い文句、何も刺さらない

◆およそ一年ぶりに帰省をした。コロナ禍が始まってから初めての帰省だったが、意外と街には人が溢れていて、街の景観自体もそこまで変わらず、良かったなあという思いと変化がないなあという思いがごちゃ混ぜになった。特に実家も変わっていなかったのでよかったと思う。祖母から「前にあったときより、いい顔つきになったので安心した。」と言われたので、それだけでいい帰省だったのかなと思っている。

 

◆帰省して、映画館にいくという愚挙に出るのは毎度のこと。「mid90s」と「TENET」を観る。レビューとか解説はする必要も立場でもないですが、両作ともめちゃくちゃよかったですね。「mid90s」はもうほぼドキュメンタリーな作り、背景にジョナ・ヒルの腕組み姿(なぜかあの太っている状態のときの)が透けてみえるような作品、「TENET」はノーランアレルギーの人も人間界には多くいらっしゃいますが、脚本がまあ毎度すごいですよ。逆行兵ってもう心の中の中学二年生が反応せざるを得ないですよ。(作品によっては力業な印象なものもあるにはあるけど、今作はめちゃくちゃに綺麗な進行具合だと思う。シーンすべてに意味が込められているので、隙がないっちゃないけど。)あと、ロバート・パティンソン、めちゃくちゃええですね。「GOOD TIMES」観てから、二枚目役ばかりだったイメージなのにけっこう汚え役もやるんだ…と思いましたけど、そこから更に進化されたようで、僕の好きな感じの俳優さんでした。(「TENET」と同年製作の「悪魔はいつもそこに」の変態神父役の時、嫌な感じでいい感じに声色変えてます。)

 

◆ようやく短編集の入稿データが出来上がった。見切り発車だったので初めの勢いはすごかったが、途中から意外と筆が進まなくなり、終わり際は仕事もかなり立て込んだので、設定していた期限を考えると苦しかった。ただ過去イチにボリューミーな作品となった。その量は、およそ私が書いたカスみたいな卒業論文の二倍。いろんな表情があっていい作品かなと思っている。(おおよそホラー、シリアスな展開だが。)物書きで商業的に成功しようといった考えは毛頭ないですが、一人でも作品を読みたいと言ってくれるのであれば、書いてもいいのかなと思っています。また書けた時はお知らせさせてください。(これからはちゃんと構想とかテーマ、裏設定とかきちんとめちゃくちゃ考えたものを書いてみようかと思っている。)

天啓を受けよ

◆人間の根っこは何歳になっても変えることができるのかを常に考えている。ぶっちゃけ、人は幼い頃に大部分が形成される気がするので、私のようなもうすぐ30歳となるただの人間が、いきなり「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学ぶがいい」とか言い出したら非常に気持ちが悪い。(これはガンジーが言ったとされる格言らしい。ガンジーが言うと、説得力ありまくりやがるね。)まぁ、根と乖離しているからだろう。

 いま自分が日常的にやっている多くのことは、昔やっていたことの発展、深化(ある部分では退化)させたものだ。これも幼い頃に身につけた習慣の根だろう。人間の根を考えるとき、たとえば自分にとって何が一番ストレスをかけてくるかを考えてみると面白い。私の場合、まず予定通りにことが運ばないことがいちばん辛い。仕事の場合、そんなことは日常茶飯事、当たり前のことなので、ある程度、覚悟した上でやっているが。昔からプライベートの領域で発生するとかなりのストレスがかかってくる。自分や家族以外の他人は自分の尺度でコントロールできないものなので仕方ないが、昔は20分程度の遅刻でも殺意の波動を纏ったリュウのような面持ちになってしまっていた。(今はだいぶ緩和されている。昔のことなので引かないでほしい。)そんな自分を変えようと思っていた矢先、尊敬するあるお方から「みんな、自分の時間にどんだけ価値があると思ってんだよ。ないよ。」という発言が出る。若かった自分は驚くほどに感銘を受け、自分の時間をまじで蔑ろにしてみようと考えてみたが、あれから約5年、この試みのバランスの正しい取り方がよくわからない。

 とりあえず稲垣吾郎のように他人に全く期待しないという生き方はどうか。いやまあ〜、でもプライベートくらいは希望的観測させてちょうだいな〜。こういう風に生き方を模索していると40代、50代、気づけばうちのおばあちゃんの亡くなったときの歳と同じ?!みたいなことになりかねない。生きるスタンスを決め打ちでいくのか、フラフラしていくのか。それはそれでまた自分次第。そんなこんなで大人の余裕とはどのようなところから来るのだろうか。正直いまだにわからないでいる。まあ、でも結果人間の根っこの部分は変えられない気がしてます。激しめの天啓でも受けない限り。