シリアスな場面で出される、吉野家の牛丼

◆日本での全国の新型コロナウイルスの感染者数は2,000人を連日超えている状況だが、疲弊してしまったのか、もう諦めているのか、街には以前ほどの警戒モードは微塵も感じられず、腰に手をやるカップルや数多のワーカー、外国人によるデモ行進など、マスクを付けながらもコロナ出現前の生活を過ごしている。とはいえ、そんな自分も連日の重症者数を告げる報道や都知事の会見などを見ても、半年前の焼き直しを見ている感覚になってしまい、「その度に思考する」ということもなくなってしまっている。こんなことを有名人とかが報道番組で言うと、火ダルマになってしまうだろうが、コロナの出現によって恩恵を受けられた面はものすごく大きい。ウイルスが広がらなかったら日本は平成の空気をいつまでも引きずっていただろう。ノーマルな生活様式は跡形もなく崩壊し、「当たり前の生活の仕方」を定める裁量は個人に以前と比べられないくらいに委ねられている。歪な集団圧力(「昔はこうだったから、こうしていたから」みたいな言説)みたいなものもなくなっているので、快適っちゃあ快適である。ただ、この「生暖かい真綿で首を絞められたり、緩められたりしている状況」にいつまでみんな耐えられるのだろうか。もしくは、もう事切れて始めているのか。

 

◆最近、PS4の人気ソフト「ダークソウル3」のトロフィーコンプリートに必要な情報が記載されたファイルを、誤って上司にメールで送ってしまった。「スズメバチの指輪」や「ハベルの指輪+3」という架空のアイテムはゲームの主人公に必要かもしれないが、ゲームよりも展開の早いビジネスの世界には全く必要ない。「林さん、これは見なかったことにしておきますね!」という返信の20字はどんな敵の一撃よりも重かった。

 

◆文芸作品はいい、頭の中で何にでもなれる。大量の札束に火をつけて、人に渡すこともできるし、動物にドイツ語を話させることもできる。「自分、夢が多くて何になるか迷っています…、何もできていないんですけどね。」というような人は一度小説を書いたらいいと思う。大抵、現実が自分の思い通りになることはないので、普通の生活を地道に送りながら、荒唐無稽な話を書いたらいいと思う。突き詰めると、この世は頭のおかしな人間しかいないので、その人たちが生み出す物語には必ず何かしらの価値が付く。命をすり減らして書いた作品であれば、無名・有名、巧拙問わずにどんなものでも読んでみたい。最近、本を読む時間とエネルギーが足りない。読まないと、当然に心も痩せてくる。加えて、いま自分は何も書けていないのだが、隙間を見つけ、ほぼ儲かりもしない文芸作品を生み出していきたい。