ウイルスと映画

◆ウイルス

 

 電車に乗る、仕事の打ち合わせに出る、そういった日常のあらゆる場面で見聞きするのが、コロナウイルスの話題である。人命に関わる重要な話だが、ここまで毎日のように同じように危機的な状況だと聞かされるとかなり気が滅入ってくる。昨日、都内でも週末の外出自粛の要請が出た。オリンピックも中止になり、風雲急を告げている状況がみてとれる。

 そんな世情も相まって、ニュースやらさま様な番組をテレビでみる場面が増え、そのたびに地上波放送が本当に要らないという思いが特に強くなってくる。僕は高校に進学してから意識的にテレビ離れを行っていて、「さよならテレビジョン」といった生活スタイルをなるべく行ってきた。

 理由はいくつもあるが、まずおおよそのテレビ放送の内容において「対話」が成り立たない。ドラマでもニュースでもバラエティでも、こちらが考える余地を感じないものが多い。またそれが考えるべき内容であってもCMで寸断される。僕が読書や映画を好むのは、この「対話」に理由がある。作り手の意思の提示があって、「どうだこの展開は」とか、「この方がいいんじゃないか」とか、自分の身体で思考することができる。たとえ低次元な考え方であっても楽しいからよい。あとテレビはあまりにも選択肢が少ない、なんだ12チャンネルくらいの中から視聴番組を選ぶばなきゃいけない。ここまでコンテンツ飽和状態の現代、あまりにも狭小すぎる。テレビのようなメディアの場合、小さな愚行でも大きな狂気で圧倒できてしまう。そんな状況には常にNOを突きつけていきたい。

 自分が出演する予定だった公演は当然、自粛または延期になってしまった。僕をドラマーとして必要としてくれる人が、ようやくちらほら出てきてくれたのに非常に残念だ。規模は違えど、人前に出ている人たちが頭を悩ましていることに、同じような立場で自分も考える場があるという状況は嬉しくもあり、同時に悲しくもある。

 

◆映画

 

 先ほど諏訪敦彦監督の著作「誰も必要としていないかもしれない、映画の可能性のためにー制作・教育・批評」(フィルムアート社)を3日をかけて読了した。計約500ページにものぼる大著だが、退屈する事なく、ふむふむと納得しながら読んだ。

 諏訪敦彦という監督は、ある友人から教えてもらった。カンヌ国際映画祭の国際批評家連盟賞を受賞したり、東京造形大学の学長に就任したりと、世界的に有名な監督なのだが、映画好きもどきの私には耳馴染みがなく、どれどれとおすすめされた「ユキとニナ」という作品を観た。

 

 「ユキとニナ」は俳優のイボリット・ジラルドと共同監督という形で制作された日仏合作の映画である。あらすじはこうだ。

 

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 パリに住む日仏ハーフで9歳の女の子のユキは、同い年のニナと大の親友。だが、ある時両親の仲が悪くなり、母親はユキを連れて日本へ帰ることを計画する。親友と離れたくない二人は、両親の離婚を阻止するために奮闘するが、それも虚しく離婚は決定的となる。ユキとニナは家出を決意し、電車に乗ってニナの母親の故郷へ向かう。

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 詳しくは作品を観て欲しいのだが、僕にとって印象的なシーンがある。それはユキ(ノエ・サンピ)が両親の離婚を防ぐために匿名(愛の妖精として)の手紙を友人のニナと作成し、それを母親が読むシーンだ。そこで母親役のツユはエモーショナルな演技で手紙を読む。セオリー通りであれば、ユキはその母親の感情を自分なりに汲んで、悲しい表情をしたり、はたまた中空に目をやったりして、ある種の情をかけるのが定石とされる演技だと思う。しかし、ノエがとった演技は「笑う」事だった。それも演技的な笑いではなく、苦笑ともとれる素の笑いだ。演技が「破綻」してしまっているのである。

 このシーンにめちゃくちゃ衝撃を受けてしまい、この先一生忘れないんじゃないかと思う。先ほど触れた本でも、この「ユキとニナ」についての制作風景だったり、インタビューが収録されているが、ここのエピソードは非常に面白い。演技が破綻してしまったため、もちろん撮り直しを行ったが、先ほどよりいいテイクは撮れない。ただ、この演技の破綻によって、受け取り方次第では母と娘の関係性がほのかに立ち上がってくるいいシーンのように思えてきたようだ。この「笑い」の真相は「あまりにも泣きすぎていて、(ツユ)の目のメイクが落ち、顔がパンダのようになったから」とノエが語っている。

 この状況はおそらく現場の人間、観客ともに誰一人として予期していない、というかできない。台本にも書かれておらず、今までの理論が当てはまらないからだ。

 

 自然は尊い。森だったり、海だったり。それは人間の頭の中にない風景が広がっているからだ。一方で私たちが過ごしているビルやマンション、映画館などは人の手で作ったものにすぎず、それは「予期」できるものだ。僕は人間の頭にはない「予期」出来ないものこそ面白いと思う。

 

 自分は「Compact Club」というバンドに所属し、ドラムを叩いている。このバンドとスタジオに入って、しばらく過ごしてから、正式にお誘いを受けた。これは僕にとって一種のユートピア的提案だったので、即加入を決めた。このバンドは、何が飛び出してくるのかわからず、というか、やっている僕でさえはじめはあまり良さがわからない曲を作ったりしている時がある。もちろん全員が納得した形で一旦の完成を迎えるが、ここにとてつもない面白さが潜んでいる。化学反応とはよく言ったもので、予期できない面白さ、誰にも消費されない何かが、そこにはたしかにあるのだ。

 いまはなにかを目指して、頭にあることを達成して得る楽しさよりも、ずっとそっちの方が面白いと思える。