攪拌

◎月◇日
仕事をしていて感じるのですが、社会のシステムとしては必要だけれども、本音を言えば不要な仕組みが多すぎます。社会がオレに合わせろなんて口が裂けても言えないですし、他人の物差しにまで、口を挟める身分の人間ではありません。しかし、みんなが要らないというものをいつまでも残しておくと、この国の仕組みも用いる価値のないモノで埋め尽くされそう。あとは個人の度量の問題です。

△月×日
人の考えられるキャパは決められているのか。朝支度を夜のうちに行っておかないと、次の日の思考体力が朝支度分だけ削られていく気がします。同じく、感受性の容量も時期によって決まります。たとえば、文芸に寄りかかっているときは映画も音楽も触れる余裕が生まれません。私は文芸、音楽、映画を精神的支柱にしておりますが、このサイクルは2週くらいで移りかわる気がしています。
それに伴って、あれもこれも全部やりたいみたいな欲も薄れてきた気がします。「30代にもなると人生の主人公感がなくなり、他のモノゴトを考える余裕が出来てくるので、オススメ。」というネットの書き込みを、今なら何となく理解できるような気がします。いくら想像してもたかが知れており、現実はいとも簡単に自分の想像力を超えてきます。

※月▼日
27歳になるのが結構自分で信じられないことです。よく知られている偉人も死んだのが27歳だという方がまぁまぁ多い。そんな太く生きていないし、27歳も難無く生きていく自信があるのだが、一端のオトナとして見られるのが当たり前な年齢になってきていることをひしひしと感じている。

卍月α日
ネット社会に散見される「誰か私に問いかけてください」というスタンス。何か問われれば「〇〇です」と答えることができる。でも、大事なのは自分で問いを見つけることだ。どうありたいか?という問いを持ち続け考えることが大事だと思っているが、答えを固めるのが難しい。小さい頃から定型教育を受けてきたり、無数のインプットを浴びてきたからか? 世に既に在るモノから選び取るのではなくて、空気を読まずに、自分がどうありたいか今一度見つめる必要があるのかなと思ってます。

〼月✳︎日
改行することが思いやりだとは思うんですが、こっちの方が書くときには快適な気がしました。どっちがよいのでしょう?