天啓を受けよ

◆人間の根っこは何歳になっても変えることができるのかを常に考えている。ぶっちゃけ、人は幼い頃に大部分が形成される気がするので、私のようなもうすぐ30歳となるただの人間が、いきなり「明日死ぬかのように生きよ、永遠に生きるかのように学ぶがいい」とか言い出したら非常に気持ちが悪い。(これはガンジーが言ったとされる格言らしい。ガンジーが言うと、説得力ありまくりやがるね。)まぁ、根と乖離しているからだろう。

 いま自分が日常的にやっている多くのことは、昔やっていたことの発展、深化(ある部分では退化)させたものだ。これも幼い頃に身につけた習慣の根だろう。人間の根を考えるとき、たとえば自分にとって何が一番ストレスをかけてくるかを考えてみると面白い。私の場合、まず予定通りにことが運ばないことがいちばん辛い。仕事の場合、そんなことは日常茶飯事、当たり前のことなので、ある程度、覚悟した上でやっているが。昔からプライベートの領域で発生するとかなりのストレスがかかってくる。自分や家族以外の他人は自分の尺度でコントロールできないものなので仕方ないが、昔は20分程度の遅刻でも殺意の波動を纏ったリュウのような面持ちになってしまっていた。(今はだいぶ緩和されている。昔のことなので引かないでほしい。)そんな自分を変えようと思っていた矢先、尊敬するあるお方から「みんな、自分の時間にどんだけ価値があると思ってんだよ。ないよ。」という発言が出る。若かった自分は驚くほどに感銘を受け、自分の時間をまじで蔑ろにしてみようと考えてみたが、あれから約5年、この試みのバランスの正しい取り方がよくわからない。

 とりあえず稲垣吾郎のように他人に全く期待しないという生き方はどうか。いやまあ〜、でもプライベートくらいは希望的観測させてちょうだいな〜。こういう風に生き方を模索していると40代、50代、気づけばうちのおばあちゃんの亡くなったときの歳と同じ?!みたいなことになりかねない。生きるスタンスを決め打ちでいくのか、フラフラしていくのか。それはそれでまた自分次第。そんなこんなで大人の余裕とはどのようなところから来るのだろうか。正直いまだにわからないでいる。まあ、でも結果人間の根っこの部分は変えられない気がしてます。激しめの天啓でも受けない限り。